一番びっくりしたのはね、命がけで我々のために闘ってくれる人がはじめて現れた、すなわち、血を流してまでもね、農民を助けてくれた人っていないわけですよ、歴史のなかに。そういう意味では、えらい待遇しましたよ、歓迎しましたね、それは。
一番びっくりしたのはね、命がけで我々のために闘ってくれる人がはじめて現れた、すなわち、血を流してまでもね、農民を助けてくれた人っていないわけですよ、歴史のなかに。そういう意味では、えらい待遇しましたよ、歓迎しましたね、それは。
三里塚闘争をどう維持していくのか。その思考自身が間違いだと言われれば、もうぼくとしては言葉はないですけど。ぼくとしてはどういう風な形で三里塚の闘争を維持し、継続し、勝利させていこうかという風に問題を立てて、過ごしてきましたけどね。
週刊新潮なんてひどいことが書いてあってね。世間知らずのお嬢さんがすぐ逃げ出すだろうみたいに書いてあって。そんとき思ったね、新聞とかあれはいい加減なことを書くなって。まあ、なんて書かれたって私は私だから見ててよって思ったね
動かざるを得なかった。そうじゃなかったら、村が消えていくでしょう、一本釣りされて。そういうのを目の当たりにしたときに、これはもう無理だっていう判断があって。だったら村全体、辺田っていう部落はどうしても残しておきたかった。それが移転のきっかけだよね、一番の。
68年に中郷部落の前田勝雄の家へ援農に入り、71年に勝雄と結婚した。
1969年の11月16日だったかな、佐藤訪米阻止っていうのがあって、私は副隊長で。私は火炎瓶はもたなかったんですけど、ポケットに石を入れてたんですね、それで捕まったんです。で、半年(拘置所に)入ってほしいっていうのが1年以上になったんです。最後のころにね、会いにきたんですね、勝雄さんが、MLの人と。
(71年第一次強制代執行阻止闘争を) 2月に見て、居ても立ってもいられんで、3月1日から入ったかな、ここに。テレビ報道で、それこそ婦人行動隊が鎖で自分しばってっていうのとか、少年行動隊とか、見て、ほんま居ても立ってもいられん。穴掘り現闘の決め台詞は、この穴はベトナムに通じているっていうやつよ。ほんで、フォークソングを歌い〜の。
夢見るんですよ。最近見なくなったけど。夢のなかでは管制塔を占拠して、成功してるんですね。それで壊して、捕まらないで帰ってきてるのに、(隊長の)前田のバカがさ、どうも自分は壊し損なったような気がすると、もう一回行くぞって言うんですよ。
気持ちは志願兵ですよ、義勇兵ですよ、助っ人ですよ。百姓の闘いを助っ人するという気持ちで。で、その気持ちがひとつになって勝利を収めたのが78年の3.26の空港包囲占拠の闘いだったという風に、いまでもそう思ってますけども。
何も悔いはないです。ただ思い出すと、残された悔いっていうのは、いろんな危ない目にあったとか、死に物狂い、死にそうになったとか、そういうことしか思い出としてはないですよね。それと空港建設で亡くなった方はかわいそうだったなあっていうのは、石橋さんをはじめね、みなさんそういう風に、農家の人はかわいそうだったことを思い出しますね。
(移転を決めて)それからはあれでしたよね、どんどん押し寄せてきました、全国からね。中核の人もいますし、他の党派の人もいますしね。脅しみたいな言葉も吐いていくっていう形ですね、いつ火をつけられてもいいような感じでねえ。まあ、忘れられないですね、そういう。あまり言えないというか、人にはね。だから、ずっと封印です、もうそういうのは。