郊遊

— Special —

92年の衝撃のデビューから現在に至るまで、三大映画祭をはじめ世界中で高い評価を得てきたツァイ・ミンリャン監督。引退作となる『郊遊<ピクニック>』の公開を記念し、これまでの日本公開全8作の公開当時の映画評を抜粋で紹介します。伝説の映画評論家、淀川長治さんをはじめとした日本の映画人が語る「ツァイ・ミンリャン映画のここが凄い」をお楽しみください。

 
※転載をご快諾くださいました執筆者、関係者の皆さまに感謝いたします。

青春神話

青春神話

1995.6.10公開

秦早穂子氏

■青春神話(1995.6.10公開)

(略)余白を残すことこそ、蔡明亮が望むべきものではないだろうか。べた塗りを避けて、東洋の絵画が余白のなかに無限の思いをこめるように、彼の作品は今後、この余白をあらゆる面で試みるように思う。それが既存の、西欧の映画に対する彼の存在の仕方であろう。一見、つつしみ深くありながら、彼にとっての、 あるべき映画-『青春神話』はその序曲であり、それだけに多くの共感者をまき込んでゆくだろう。

秦早穂子氏寄稿(『青春神話』パンフレット〜インタビューを終えて〜より一部抜粋)

愛情萬歳

愛情萬歳

1995.8.12公開

山根貞男氏

■愛情萬歳(1995.8.12公開)

(略)空っぽでも感情は波立つ。むしろ空っぽだからこそ、随所で三人の動物的な呼吸音や喘ぎ声が鮮明に浮き立つように、感情が勢いよく波立ってうねる。ラスト、えんえん急ぎ足で歩きつづけるリズムのもと、メイのなかに湧き立ったのは、きっとそうした激情であろう。そして、空っぽだから感情がうねるとはなにか悲しくはないか。さめざめと泣くヒロインの姿は、空っぽを生きる者の激情において現代人の生の裸形を感動的に表現している。

山根貞男氏映画評抜粋(『愛情萬歳』パンフレットより)

河

1998.8.8公開

淀川長治氏

■河(1998.8.8公開)

淀川長治の新シネマトーク

台湾の家族三人の孤独を描いた、
グロテスクでエロティックな野心作。
ヨーロッパ感覚です。

 『河』という題から、何か台湾の河の歴史が出てくるか思ったらとんでもない。
 河が出てくるのは一番最初。そこで映画の撮影をやっていて、死体が流れついたシーンなんだけど、人形だからうまくいかない。───主人公の男の子、道で久しぶりの友達に会って、その女の子に連れられてこの撮影現場に来ていたんだね。
 ちょっと死体の役やってくれない、なんて言われて、その河、汚い泥水みたいな水なんだけれども、シャオカンというこの男の子、河に浮かぶ役をする。そのとき泥水を飲んだからかどうか、首が痛む病にかかっているんです、この子。
 この映画は家族三人の孤独。お父さん、お母さん、それから青春の年頃の息子シャオカン。首が曲がって痛む。スクーターに乗って走ってもすぐひっくり返ってしまう。友達もいない、彼女もいない。お父さんも憂鬱になっちゃうの、息子のおかげで。息子はもっと憂鬱なのね。
 お母さん、エレベーターガールなの、中年だけど。彼氏がいるんです。その男はポルノビデオの配達係。ときどきしか会ってくれない。ビデオは非常に激しいポルノなの。お母さん、配達屋の男の子を好いているのね。ポルノビデオを見ては欲情しているらしいの。
 お母さんやお父さんは息子をあちこち連れて行くの、首のために。鍼に行くと、肩から指先から、いっぱい鍼を刺す。そこをクローズアップで見せるんです、怖かったなぁ、痛くないのかしらん。それからお寺にお詣りに行ったり。何もかも効かない。
 お父さん、ガックリしているの。台湾には面白いところがあるんですね、ゲイのサウナ。日本にあるのかどうか僕は知りません。ずぅっと部屋が並んでいて、どの部屋も暗い。中にいると誰か入ってきて、ふたり抱き合って寝る。
 憂鬱なお父さんはそこに通っているんです、ゲイサウナに。
 家族三人が、全部孤独。お父さんの部屋、天井から水がどんどん漏ってきて、水びたし。それをバケツにとったりしている。そういう心境を写すような映画のつくり方、ヨーロッパ的です。水が入ってきて、入ってきて、何か感覚的に水が流れてくる、床の上を。そんなヨーロッパの映画、ありましたよ。
この監督、ツァイ・ミンリャンという人。蔡明亮という字で、こう読むんですね。前に『青春神話』(92年)、『愛情萬歳』(94年)を撮って、国外でも評判になりました。『愛情萬歳』はヴェネチアでグランプリをとった。舞台の仕事からスタートして、脚本も書いていたそうです。前の二本も今回の『河』も、監督、脚本、両方やっています。
 演劇から入った人だからでしょう、『河』も、三人の舞台劇みたいなものです。最後に、息子がホテルの窓をあけてテラスに出る。僕はそこから飛び降りるんだと思った。でもそうはしない。死ぬこともできないのね。三人の、男、女、親子の、非常に悪魔的な厳しい孤独の映画、三幕の舞台なんだよ。
 僕は侯孝賢で台湾の映画に馴染んだでしょう。だから自然派の映画かと思っておったら、こちらはちょっとシュール。画面自身はリアリズムに撮っているけど、感覚的にシュール。この監督、40歳、若いけど、シュトロハイム主義だ。ビデオで見たかどうか……三人の人物の全部に陰がある、それが非常にシュトロハイム的なの。
 ゲイサウナでお父さんと息子、知らずに寝ちゃう。暗がりで、お互いになにに触るのね、パンツの中まで。その相手が親子だった。そういうグロテスク、エロティック、この監督は野心的だ。映画に熱心、非常に映画青年です。
 人間の河ね、流れて行く河。濁ったり清らかだったり、そういう濁流。面白い映画です。この監督、これから僕、注目です。

淀川長治 淀川長治氏映画評(「an・an」淀川長治の新シネマトーク1998年8月28日号より)
※「an・an」の連載の中から厳選した「淀川長治のシネマトーク」の新装版、文庫「淀川長治のシネマトーク」(上・下)(マガジンハウス刊)発売中!(本書に『河』の映画評は収容されていません。)





Hole

Hole

1999.9.4公開

黒田邦雄氏

■Hole(1999.9.4公開)

(略)何ともけったいな設定だが、安部公房ふうの不条理な世界と思えばいい。ウィルスが混入して水道水が飲めないとか、連日激しい雨が降り続いているとか、男と女はまさに神経衰弱ぎりぎりの状態に置かれている。この閉塞状況の中で、男と女はひたすら世界の終りを待ち続けるのか、というような暗いはなしなのに、突如としてインサートされるのは、華やかなミュージカルふうシーンだ。1950〜60年代に台湾でも大流行した香港歌手グレース・チャンのヒット・ポップスに、女がロパクで歌い踊る。最後は、穴で結ばれた女と男のデュエットまであるのだが、絶望の果ての甘美な世界とはまさにこれ。映画の麻薬的パワーを見せつける傑作である。

黒田邦雄氏映画評抜粋(『ミセス』1999年10月号より)

ふたつの時、ふたりの時間

ふたつの時、
ふたりの時間

2002.2.23公開

角田光代氏

■ふたつの時、ふたりの時間(2002.2.23公開)

(略)蔡明亮の映画を見ていると、すべてが水のなかでおこなわれているような錯覚を抱くことが私にはある。(略)水のなか、声を奪われた不自由な状態で、ありとあらゆる感情をひとり抱えこみもがいたり沈んだり、ぽかりと浮いたりしているような印象を受けるのだ。(略)彼の映画には静止画かと一瞬疑うような、音のない、動きのない場面が多々あるが、私はその、永遠に続くかのようなしずけさ、無の一瞬、画面に目を向けたまま自分の内のとても深いところに潜っていくような感覚にとらわれる。そこにあるのはやはり、広大なかなしみである。(略)

角田光代氏映画評抜粋(『ふたつの時、ふたりの時間』パンフレットより)

楽日

楽日

2006.8.26公開

細谷美香氏

■楽日(2006.8.26公開)

(略)ノスタルジックにおぼれがちな題材でありながら、映画館そのものを息遣いのある生物のようにとらえたショットの数々が異様な迫力を伝え、忘れがたい余韻を残す。

細谷美香氏映画評抜粋(毎日新聞2006年9月8日付夕刊より)

西瓜

西瓜

2006.9.23公開

野崎歓氏

■西瓜(2006.9.23公開)

(略)全編が形づくる濃密な体験。それはこの映画の画面が、「見よ、ひたすら見よ!」というメッセージを、西瓜の真っ赤な断面よろしく、目もあやに発し続けるところからくる。(略)見ることが驚異を生むという単純な真実に、蔡明亮の作品は肉薄していく。(略)

野崎歓氏映画評抜粋(「すばる」2006年10月号より)

黒い眼のオペラ

黒い眼のオペラ

2007.3.24公開

西川美和氏

■黒い眼のオペラ(2007.3.24公開)

(略)この映画を一貫して支配している長い長いそれぞれのカットは、のんびりとして心和む悠長な長回しとは種を異にする。観客が見たいものを見たい時に見せてくれたり、その時々のシーンで何を見るべきかを教えてくれるような親切なカットも存在しない。人物たちの心が雑踏の中でひっそりと不確かな変化を起こすのを、私たちはロングショットの中に自ら発見するしかなく、逃れ難い宿命的な生活の「時間の長さ」というものを彼らと共に耐えなければならない。(略)

西川美和氏映画評抜粋(『黒い眼のオペラ』パンフレットより)