葡萄畑に帰ろう

大地に葡萄の種を植えよう熟した房を手に取ろう友を呼び 心を愛で満たそうブラート・オクジャワ「ジョージアの歌」より

2018 ロシア・アカデミー賞最優秀外国映画賞

予告編
映画の舞台,ワインの産地カヘティ地方へ

予告編

解説

大らかなユーモアと空想力で虚言に満ちた権力社会を風刺。

ジョージア映画界の最長老エルダル・シェンゲラヤ監督が85歳にして21年ぶりに贈る人生賛歌。

激動の時代に政界に身をおいた
実体験から生まれた名匠の人生賛歌。

ジョージア(グルジア)映画史に残る傑作『青い山-本当らしくない本当の話』の名匠エルダル・シェンゲラヤ監督。『放浪の画家 ピロスマニ』のギオルギ・シェンゲラヤ監督を弟に持ち、多くの人々に尊敬されている85歳の映画界 の最長老が、実際に政界に身をおいていた自身の経験をもとに、21年ぶりに完成させた本作。権力社会への 痛烈な風刺を、自由な想像力と大らかなユーモアで描いた人生賛歌である。

葡萄畑はジョージアの魂、
本来の夢への帰還。

コーカサス山脈の南に位置し、東西交易の要衝であったため、周辺の国々に翻弄されながらも、ジョージアの人々が守りつづけてきたもの…それが独自の言語、宗教、そしてワイン。ジョージアは8000年の歴史を持つワイン発祥の地で、伝統的なジョージアワインは、2013年、日本の和食とともにユネスコの無形文化遺産に登録された。ワインの大地・葡萄畑はまさにジョージアの魂である。権力争いのなかで失墜した主人公ギオルギが、故郷の葡萄畑でジョージア人らしい生活と精神を取り戻し、家族を再生させようとする物語には、平和で幸せな社会をくり返し求めては潰されてきた過酷な歴史のなかで、それでも失わぬ理想の世界への夢に立ち帰ろうという監督のメッセージが感じられる。

ジョージア映画に
ユーモアと寓話が帰ってきた!

寓話的でありながら、辛口の風刺精神とユーモアにあふれ、同時に人間への愛とやさしさを失わない。シェンゲラヤ監督の作風がみずみずしく溢れる本作。知られざる映画大国として近年注目され、テンギズ・アブラゼ監督の『祈り 三部作』や現実のジョージア社会に向き合った『花咲くころ』などが日本公開されてきたジョージア映画だが、本作のように明るい作品は近年なかった。背景には90年代の内戦、紛争の混乱を経て、いま冬を過ぎて草花が芽生えるように、人間的なユーモアを感じさせる作品が生まれてきていることが挙げられる。本作を見たジョージア映画人が「とうとうジョージア映画にユーモアと寓話が帰ってきた!」と快哉をあげた名匠の傑作をお楽しみください。

解説

故郷に母を残し、大臣に出世した息子。
突然の災難の結末は?

故郷に残した母のことはすっかり忘れ、政府の要職で大臣の椅子の座り心地を満喫しているギオルギ。妻を早くに亡くし、上の娘とは少し折り合いはわるいが、地位も権力もあり、可愛い一人息子と義理の姉と立派な家に暮らして、順風満帆。ある日出会った元ヴァイオリニストのドナラとの恋まで手に入れた。しかし、嘘と騙し合いと忖度まみれの政界で、ギオルギは大臣をクビに。突然の災難に見舞われたギオルギとその家族は?

解説

エルダル・シェンゲラヤ

監督・共同脚本:エルダル・シェンゲラヤ

Eldar Shengelaia

1933年1月26日、ジョージアのトビリシに生まれる。現在、85歳。ジョージア映画人に尊敬される最長老。弟は『放浪の画家 ピロスマニ』監督のギオルギ・シェンゲラヤ(1937〜)。
父は巨匠ニコロズ・シェンゲラヤ(1903〜43)、母は大女優ナト・ヴァチナゼ(1904〜1953)。モスクワ国立映画大学でセルゲイ・ユトケーヴィチ監督に師事。長編劇映画第1作は『冷たい心の物語』(1957)。3作目の『白いキャラバン』が1964年カンヌ国際映画祭に出品され、国際的な注目を集める。その後も『奇妙な展覧会』(1968)、『奇人たち』(1974)、『サマニシュヴリの継母』(1978)といった秀作を発表。1983年の『青い山ー本当らしくない本当の話』は、その風刺精神で官僚社会の愚かさを痛烈に描き、全ソヴィエト映画祭グランプリに輝いた(日本では岩波ホールで1995年に公開)。映画界で人望厚く1976年から2012年までの36年間、ジョージア映画人同盟の代表を務める。またソヴィエト連邦離脱後には政界にも求められ、ジョージア国会副議長を務めたが2006年の愛娘の死をきっかけに一切の政治活動を辞した。21年ぶりの新作となる本作では、枠に捉われない、のびやかで自由な想像力が生んだ上質なユーモアとアイロニーに満ちた風刺的な寓話という特徴が、見事に調和している。
1979年にジョージア人民芸術家賞、1988年にソヴィエト連邦人民芸術家賞を授与されている。

エルダル・シェンゲラヤ フィルモグラフィー

監督インタビュー

この映画には監督ご自身の経験が活かされているのでしょうか?

そうです。私が長く政治家だった経験がこの映画に生きています。多くの政治家が地位=椅子を欲しがり、それも国民のためにではなく、自分がいい暮らしをするために争っていました。そんな政治家の姿をずっと見てきたのです。最近、まるでこの映画の1シーンのようですが、サアカシュヴィリ元大統領がウクライナで特殊部隊に包囲されて群衆に救い出されるという事件が起こりました。この映画で描いていることには現実的な意味があります。人間の欲望はいつの時代も同じということです。日本ではどうなのかわかりませんが、今でも世界中の政治家の対立は激しいものですよ。

監督の政治家としての活動を少しお話いただけますか?

1991年にジョージアがソヴィエト連邦から離脱し、独立を宣言した時に、私はガムサフルディア初代大統領を支持していましたが、国会内に異なる会派を作ろうとしたところ、ガムサフルディア派から激しく批判されました。そのことに反発し、多くの知識人とともに大統領反対派に移りました。内戦を経て、ガムサフルディアが逃亡し、シェヴァルドナゼがモスクワから帰ってきたときも、最初は彼を支持して、国会の副議長を務めたのですが、その後、体制内の汚職がひどくなり、反対派にまわることになりました。シェヴァルドナゼは私を解任しようとしましたが、私には多くの支持者がいたので解任できませんでした。私はいつも国民のために政治活動を続けてきたつもりです。しかし2006年に娘が急死し、そのときに、もうこれ以上政治活動をしないと決めました。それ以降はいっさい政治活動はしていません。

独立前後はまさに激動の時代ですね。

1976年から2012年まで36年間、ジョージア映画人同盟の代表も務めていましたが、1989年4月9日に、トビリシでストライキ中の市民に対して軍が武力行使し多くの犠牲者が出たときのことは忘れられません。私は、その模様をビデオで撮影して、それを国外に持ち出し、この国で起こっている事実を世界に知らせました。この弾圧とそれに対する民衆の反発は、ソ連邦を揺るがす大きな事件になりました。

映画に登場する避難民は現実の避難民をイメージしているのですか?

この映画における難民は、劇中ではっきりと言っていませんが、1990年代初頭のアブハジア紛争、2008年の南オセチアをめぐるロシアとの戦争などで生まれたジョージア国内避難民です。アブハジアの分離独立の紛争では25万人の人たちが故郷を追われ、難民になりました。多くは同じジョージア人です。当時、多くの難民が空家やホテルに無断で住み、映画のような出来事がたくさん起こりましたが、最近ようやく沈静化しつつあります。名称は別として難民省は実際にあり、ジョージアには他の国々からの難民もいます。

監督の代表作である『青い山ー本当らしくない本当の話』の中の、あの絵画が崩れ、ギオルギの家までもが崩れるというシーンがとても強い印象を残します。

ギオルギの家が崩壊するのは、ひとつの体制の崩壊を寓話的に表わしたものです。『青い山』で最後に役所が崩れることと同じです。しかし、何度、体制が崩れようとも、人間の“椅子”に対する執着や愛情は変わることがないのです。

この映画をジョージアのワインにたとえるとしたら何でしょう?

ジョージアのワインの味にたとえるならば、東ジョージアのカヘティ地方の有名な辛口の赤ワイン「ムクザニ」です。映画の主人公ギオルギの故郷がカヘティ地方です。この地域は一面に葡萄畑が広がり、たくさんのワイナリーがあります。

カヘティ地方で撮影したのですね。その他のロケ地は?

ギオルギの家はトビリシ近郊のツクネティというリゾート村、避難民の住居は自由広場のそばにある住宅、故郷の家はカヘティ地方とテラヴィ近郊のルイスピリとアハテリというところで撮影しました。
ここでネリ夫人が登場:ツクネティでは、夜中じゅう撮影が続き18時間ぶっとおしだったんですよ。そのときエルダルは83歳でした。若いカメラマンのアンドレウは疲れ果てて動けなくなり、ほかのスタッフも同様でした。そのなかで唯一元気だったのがエルダルだったの。カヘティ地方では、太陽が沈む前に撮影を終わらせなくてはならなかったんですが、エルダルはこう言うのよ。「おまえがプロデューサーなのだから太陽が沈むのを止めるんだ」ってね(笑)

解説

ジョージアという国

コーカサス山脈の南に位置し、黒海とカスピ海に挟まれた、北海道の80%ほどの大きさの国で現在の人口は約400万人。この国は3000年の歴史を持ち、ヨーロッパとアジアの狭間、シルクロードがとおる東西交易の要衝であったために、ペルシャ、アラブ、モンゴル、トルコ等の侵略と支配が絶えることなく、それは南コーカサス全域を統治して栄華を極めた12,3世紀を除いて、19世紀の帝政ロシア支配を経て今日の時代まで続いた。
1918年、ジョージア民主共和国として独立。しかし、1921年にボルシェビキの侵攻を受け、ジョージア民主共和国は崩壊、ソヴィエト政権下に置かれた。70年に及ぶソヴィエト政権下では政治の圧力や激動する時代の影響を受けるが、1991年5月、ジョージアはソ連邦から離脱し、独立を回復。今年は独立100年にあたる。
1991年末、内戦が起こり、翌年にはアブハジア、南オセチアの分離独立の紛争が激化、国内は長く混乱した。2008年にもロシアと戦争が勃発したが、現在、状況は大幅に改善され、世界から多くの観光客が訪れている。それぞれの時代に多くの爪痕が残されたが、ジョージア人の民族的精神と自国への愛は変わることなく、その独自の文化は輝きを保ち続けている。
国名について:2015年4月22日、日本語での国名が「グルジア」から「ジョージア」に変更された。英語表記は「Georgia」。なお、グルジア語では国名を「サカルトヴェロ」という。

ジョージア マップ

言語、宗教、
そしてワインはジョージアの魂

ジョージアの人々がどんなに抑圧されても守ってきたジョージアの魂。その象徴ともいえるのが、言語(ジョージア語)、宗教(ジョージア正教)、ワインである。くるくるとした曲線が印象的なジョージア文字は、アラビア文字やギリシャ文字など世界に14種類ある筆記体(アルファベット)のひとつで、その形は葡萄の蔓から生まれたという説もある。またジョージアはアルメニアに次いで世界で2番目にキリスト教を国教にした(337年)国である。そして考古学上の発見により、ジョージアのワイン文化は8000年の歴史をもつことが証明されており、ワイン発祥の地といわれている。

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ワインは私たちのすべて

ジョージアの長い歴史の中で、侵略者に何度断ち切られても葡萄は甦り、人々の生命を救ってきた。たとえ自分が倒れても大地から葡萄が生まれるように、戦士は胸に葡萄の苗を入れて戦に向かったという。
ジョージアには500種を超える固有の品種があるといわれ、地方によって栽培されている品種は異なるが、代表的なのは、ワインの一大産地、映画でも映し出されるカヘティ地方で栽培される白ブドウのルカツィテリ種や黒ブドウのサペラヴィ種など。これら固有種の大部分は、自家用のワインを造るために家の庭で育てられ、その命脈を保ったと考えられ、外敵の侵略にさらされたときも、葡萄を守るために苗や木を持って逃げたといわれている。
image カヘティ地方の高名な司祭は「ワインは威厳、勇気、正直さにおいて、私たちのすべてだ」と語り、そこにはワインがキリストの血を象徴するという、キリスト教との密接な関係がある。また、「なぜこの国はイスラムの国々に侵略され、占領されても、再生することが出来たのか」とジョージア人に尋ねると、「それはワインを止められなかったからさ」という答えがかえって来る。冗談のように聞こえるが、それほど葡萄とワインはこの国の人々の精神と生活に密接に繋がっているといえる。

ユネスコの
無形文化遺産に登録された
ジョージアのワイン文化

日本の和食がユネスコの無形文化遺産に登録された2013年12月、ジョージアの伝統的なワインづくりとその文化も登録された。ジョージア独特のワインの醸造法は、マラニという醸造蔵の地中にクヴェヴリという素焼きの甕を埋めて、そこに葡萄の果実や果皮だけでなく種や果梗まで入れ、自然に発酵させて醸造する。
2006年にワインの一番の輸出先であるロシアとの関係が悪化し、ジョージアのワイン産業は壊滅的な打撃を受けた。ヨーロッパやアジアに新しい市場を求めた結果、古代からのクヴェヴリ製法や農薬に依存しない葡萄で作る自然派ワインの質が格段に上がり、現在では世界中から注目されている。

場面写真 伝統的なジョージアワイン
代表的なジョージアワイン

(写真左より)
赤の辛口の代表「サペラヴィ」
セミスィートの「キンズマラウリ」
シェンゲラヤ監督が本作の味に例えた
赤の辛口、オークが香る「ムクザニ」

写真提供:H&Nワインジャパン
https://hnwinejapan.com/

映画『葡萄畑に帰ろう』と
ジョージアワイン

主人公ギオルギの田舎はカヘティ地方。この地域はワインの一大産地で一面に葡萄畑が広がり、たくさんのワイナリーがある。劇中で、ギオルギが隠れるワイン甕がクヴェヴリだ。
また本作の劇中、結婚式の祝宴で、角の形をした杯でワインを飲むシーンがあるが、この杯はカンツィと呼ばれ、山羊や牛の角でできている。中身を飲みほすまでテーブルに置くことができない。
本作は、虚言だらけの政治家と、彼らの権力への妄執を徹底的に風刺しているが、ラストの葡萄畑で壊れかけていた家族関係は回復、ジョージア的理想郷を人々に改めて示している。

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客人は神様からの使い、
おもてなしの文化

ジョージア人には「客人は神様からの使い」という考え方がある。おもてなしは、ジョージア食文化の象徴であり、スプラと呼ばれる夕宴では、スピーチ、歌や踊りが行われ、あふれんばかりの美味しい料理やワインが振る舞われる。スプラに欠かせないのがタマダと呼ばれる司会進行役で、映画の中にも登場する。スプラは、タマダによる言祝ぎのあいさつから始まる。タマダの乾杯の辞は美しく、集まった人々は心から唱和し、「ガウマルジョス!」という乾杯の声とともに杯を飲み干す。そしてタマダの乾杯に導かれて、人々はこの世のひとつひとつを讃美し、いつしかスプラはあたたかい思いに満ちて行く。

場面写真 場面写真

ジョージア映画

ジョージアで初の映画撮影が行われたのは1908年。それから110年。1921年から70年間に及ぶソヴィエト政権下では、政治の圧力や激動する時代の影響を受けながらも、独自の存在感を世界に主張、多くの傑出した作品が生まれました。91年の独立後には、その混乱期に青春期を過ごした「失われた世代」と呼ばれる新世代の人々が登場。厳しい社会を真摯に描いた作品を発表し、世界の高い評価を得るようになりました。そしてこの数年、冬を過ぎて草花が芽生えるように、『葡萄畑に帰ろう』に象徴される、人間的なユーモアを感じさせる作品が生まれてきています。

ジョージア出身の代表的な監督
  • テンギズ・アブラゼ
    テンギズ・アブラゼ(1924-94)

    ジョージアのクタイシに生まれる。レヴァズ・チヘイゼ監督と製作した『青い目のロバ』が、1955年カンヌ国際映画祭短編部門グランプリを受賞、ジョージア映画を世界に知らしめた。約20年の歳月をかけて完成させた三部作『祈り』『希望の樹』『懺悔』で知られる。スターリン時代の粛清を描いた『懺悔』は完成から2年間、反体制的と見られて日の目を見ることはなく、ペレストロイカの気運のなかで公開され、世界的に注目された。

  • セルゲイ・パラジャーノフ
    セルゲイ・パラジャーノフ(1924-90)

    ジョージアのトビリシに生まれたアルメニア人。ウクライナで製作した『火の馬』、アルメニア映画『ざくろの色』など唯一無二の視覚的イメージを追求した特異な作風で知られる。ソヴィエト体制の中で当局にマークされ、厳しい検閲や身に覚えのない罪によって三度も投獄される。ジョージアでは『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』等を監督。

  • ギオルギ・シェンゲラヤ
    ギオルギ・シェンゲラヤ(1933〜)

    エルダル・シェンゲラヤの弟。モスクワ映画大学でアレクサンドル・ドブジェンコ監督に師事。長編2作目の『放浪の画家 ピロスマニ』で、ジョージアの国民的画家ニコ・ピロスマニの人生を清冽に描き、世界的に注目される。その後も、『若き作曲家の旅』、『ハレバとゴーギ』などが世界的に評価された。

  • オタール・イオセリアーニ
    オタール・イオセリアーニ(1934〜)

    ジョージアのトビリシ出身。『落葉』、『田園詩』といった優れた作品を発表。1979年にフランスに移住。フランスで製作した『素敵な歌と舟はゆく』(1999)以降の作品はいずれも日本公開されて多くのファンを持つ。

  • ラナ・ゴゴベリゼ
    ラナ・ゴゴベリゼ(1928〜)

    ジョージア初の女性監督ヌツァ・ゴゴベリゼの娘。サンレモ国際映画祭グランプリの『インタビュアー』はジョージア初のフェミニズム映画と言われる。86年の『転回』は東京国際映画祭でグランプリを受賞。

  • ナナ・ジョルジャゼ
    ナナ・ジョルジャゼ(1948〜)

    長編第一作『ロビンソナーダ』がテンギズ・アブラゼ監督『懺悔』の審査員特別大賞と同年にカンヌ国際映画祭最優秀新人監督賞を受賞。一躍世界の脚光を浴び、以降、ジョージアを代表する監督に。

解説

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